【手紙が題材①】姫野カオルコ著『終業式』

こんにちは、「レタコミュ!18PLUS」です。

今日は、手紙を題材にした小説、姫野カオルコ著『終業式』をご紹介したいと思います。
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レタコミュ!らしく、「手紙」に視点がいきがちですが、悪しからず…。


すべて手紙で構成された書簡集

この作品は、すべて手紙で構成された書簡集です。
ですが、ただ手紙のやりとりで進んでいくのではなく、突然そのやりとりが終わってしまったり、しばらく年月が流れて相手へ出せなかった手紙があったり、複数の登場人物が入れ替わり立ち代わりでてきたり、こちらの想像力をフル稼働で読む必要がある書簡集です。

最初は人間関係を把握するだけで大変なところもありますが、慣れてくると、「あの子たち、どうなっちゃったの~」とか「なるほど、何かあってこんなことに…」とか「本当はこんな気持ちだったのね…」など、どんどん引き込まれていきます。

ただの書簡集ではないのが、この小説のポイントです。


1975年~1995年までの20年間の物語

主な登場人物は八木悦子、関口優子、都築宏、島木紳助(後半出てこなくなっちゃうけど)。彼らの高校時代から手紙は始まります。交換ノート、授業中に回したようなメモ、年賀状、お礼の手紙…知っている人には懐かしく、知らない人には意味不明な当時の俗語のオンパレード。そのせいか少し恥ずかしくなるような、甘酸っぱいようなそんなやりとりが続きます。
高校を卒業しそれぞれの道へ進みますが手紙のやりとりは続きます。世界が広くなったため登場人物も増え、手紙の書き方も内容も大人になっていきますが、ゆっくりとすれ違っていく4人。社会人になると、恋の悩みも深くなり、多様になり、事件があり…簡単に言ってしまえば「人生いろいろ物語」なんでしょうが、「手紙」という形態のせいか登場人物の友達のような感覚になり、どうした?なにがあった?大丈夫か?という気持ちで読んでしまいます(私だけ?)。

ただ好きだ嫌いだ、そんな高校時代から、大人になるにつれて色々な人と出会い、様々なことを学び、様々な感情を知り、どうしようもないことをしてしまったり、後悔し、でも前に進み…。そうやって人って生きていくんだよなあ、いや生きてきたんだなあと改めて感じずにはいられず、そして自身の生きてきた道を振り返ってみたくなりました。怖くて恥ずかしくて蓋してきたものの中に、何か大切なものがあったんじゃないかと。


「手紙」だから築くことができる濃密な人間関係

では、話をレタコミュ!らしく「手紙」にフォーカスしてみたいと思います。
この作品が「手紙」で書かれている理由は何なのでしょうか。
登場人物の一人、都築の手紙の中にこんな一文がありました。

自分の心の中をみることを、人はふだん、しません。しないようにしている。しないですむならしないですませたいんです。心の中を正直に見るということは怖いことだから、そこまで他人と濃密な係わりを持つということは、怖いことだから。けれど手紙ってそういう怖いことを、どんな支離滅裂な手紙であっても、いったんは脳で行わないと、書けないわけで、(中略)、近代テクノロジーの発展ってすべて「手紙を書かないですませるための方法」を考えついてきた歴史だったんじゃないかと。

p.273

手紙を書くことは、自分の内面に向き合うこと。つまり、自分の内面に向き合った結果、書かれるのが手紙。本音を書くのか、嘘を書くのか。どちらにせよ自分と向き合った結果で、その人の考えであるのは間違いではなく、そこから派生した人間関係は濃密なものになっていく。
手紙を書くことは、怖いこと。それを自覚してもなお、都築は手紙を書き続ける。それは、何故なのでしょう。怖いけど、やめられない。人は一人では生きていけないから。自分のことを理解してくれる人に出会えないから。恐怖を乗り越え、自分自身と向き合い、濃密な人間関係を築くことが、自分にとっていかに大切なことであるかを、都築は知っているのだと思います。

メールやSNSでのやりとりが当たり前になっている現在。会話するようにやりとりできてしまう。でもそれはあくまで「連絡」ツールであって、「手紙」とは全く違うものということを改めて思います。楽しい会話。連絡手段。たまに話し合えるけど。そんな感じ。

気軽で軽薄なやりとりができてしまうSNSで築かれる人間関係は、あなたにとってどういうものなのか、ということを作者は問うているような気がしてなりません。



ここまで自分も登場人物の一人のように思う作品もあまりない

手紙だけの書簡集で描き出した、彼らの青春と成長。簡単に言えばそんな小説ですが、他の小説とは異なり、どこか他人事とは思えず、自分自身もその登場人物の一人だったのではないかと錯覚してしまうような、そんな作品でした。そして、「手紙」体で書かれた文章は、自分にあてて書かれているような錯覚をも起こし、どんどん引き込まれていってしまいます。
それは今大人である自分自身が、通ってきた道とどこか似ている登場人物たちの「かっこわるい」部分を「手紙」からのぞき見(!)して、無意識にも自分と重ね合わせていくせいでもあるかもしれません。

だれしも持ち合わせている「かっこわるい」自分。八木悦子が親友の優子あてた手紙でこんな言葉があります。

かっこいい人間なんか・・・、私、思うんだけど、この世にいないよ。みんなかっこわるいよ。みんなかっこわるくてメソメソしていじいじしてるよ。(中略)でもそんなだから人は一人で生きていられないんだと思うけどな。

p.479

この作品を読みながら思い出している自分自身の「かっこわるい」所。それを「みんなかっこわるいよ」と肯定してくれる悦子の言葉。「手紙」で書かれているせいなのか、すんなりと心に入り、救ってくれます。ああ。かっこわるくてもいいんだ、と。
それが、この小説のすごいところだと思います。

自分の心に怖がらず向き合った、手紙の力は無限大。

とりあえず、私も「手紙」が書きたい。